醸造家は今日もビールの夢を見るか
2018年6月25日
料理に隠し味があるように、決して目立つわけではないものの、ものづくりの「決め手」となる要素が存在する。ビールにおけるそのポジションを担う要素のひとつが、酵母。その役割は具体的に何か? 研究者としての顔も持つ醸造家・藤村朋子が明かす。
研究者、と聞いてあなたはどういった人物像を思い浮かべるだろうか? 興味を持った分野を究めるため、日夜、課題に没頭し、そうであるがゆえにコミュニケーションをとるときにはちょっとクセがある......ステレオタイプではあるが、そんなイメージをもつかもしれない。
藤村朋子は、ビール酵母を対象とした基盤研究に没頭してきた、研究者としての顔をもつ醸造家。前述のような「ステレオタイプ」が彼女に当てはまるかといえば、半分正解であり、不正解といえるだろう。藤村は自身の経歴から醸造家とは何たるやまで、どんな話題でも簡潔明瞭、かつ、誠実に話してくれる。では正解の部分はといえば、自他ともに認める酵母への愛情がそれに当たる。
「工場でのものづくりでも、基盤研究でも、毎日10ミクロンほどの大きさの酵母と顕微鏡を通して向き合っていると、『機嫌がいいか悪いか』までわかるんです。人によっては気持ち悪がられますけどね(笑)」
藤村が〝顔色〟までうかがえるという酵母は、お酒だけでなくパン、薬品など私たちの生活と密接に関わるモノをつくるのに欠かせない。では、ビールの中での酵母の役割とは何なのか。藤村は、酵母への愛情を隠さぬまま、教えてくれた。
大学時代も研究分野として醸造を学んでいた藤村。入社後、「他社に先んじて研究に注力する姿勢に惹かれて」希望どおり基盤研究の部門でサントリーでの第一歩を踏み出した
手にとって形や色が確かめられる麦芽、ホップと異なり、酵母は肉眼で見ることは不可能だ。藤村の言葉にあったように、10ミクロン(0.01ミリメートル)の大きさであるため、顕微鏡を使わなければ目にすることができない。また、マスターズドリームの原材料欄に麦芽、ホップとは書いてあっても酵母の文字はなく、やはりここでも「目に見えない」存在だといえる。
つまり、日ごろからビールを愛する人でも酵母を意識する機会はまれといえるかもしれない。藤村によれば、太古の人々もそれと同様の感覚をもっていたようだ。
「数千年前にビールやワインに初めて出会った人って、水に浸ったパンやぶどうの果汁を何の気なしに放っておいたら『美味しいものができた!』と発見したんじゃないかと思います。偶然の産物ですね。酵母の働きが本格的に研究され始めたのは19世紀のことなので、どういったプロセスでお酒ができるのか、大昔の人にはわからなかったはずです。ただ、酵母は人間が生まれるよりも前から地球上に存在し、生き残るために糖分を食べてはアルコールをつくる、という「発酵」を繰り返してきました。なので、人にとって偶然の発見であっても、自然の摂理から見れば〝必然〟の産物だといえます」
ビールの場合、麦芽に含まれる高分子のでんぷんを、酵母が食べられる低分子の糖まで仕込工程で分解し、それをビール酵母が摂取する流れだ。そして、研究者としての藤村が研究対象のひとつとしていたのが、このビール酵母の遺伝子。具体的に、どのような研究をしていたのか?
「パン酵母、ワイン酵母、ウイスキー酵母、ビール酵母......どれも「酵母」として知られていますが、それぞれ特有の性質をもっています。例えば高い温度が得意とか、低い温度が得意とか。どういう種類の糖を食べるのか、どういう種類の香り成分をつくり出すのか。といった具合です」
「2000年前後、ヒトゲノム解析に代表されるように、世の中では様々な生物のゲノム(遺伝情報)が相次いで解析されていました。中には、乳酸菌やカビといったいわゆる産業微生物を企業が解析するという例もあり、サントリーではビール酵母のゲノム解析に取り組んだのです。
解析によって得られたゲノム情報を元に、ビール酵母の『特徴』に関係する遺伝子の探索を行いました。たとえば、ビールに特徴的な香りの成分をつくるのに重要な遺伝子の解明、などイメージしやすいかもしれません。実験的なアプローチとしては、ビール酵母の遺伝子を取り出し、パン酵母に移植する方法があります。これによって元々は香りをつくらないパン酵母が、ビールらしい香りを出すことが確認できると、やっぱりこの遺伝子がキーだったんだな、と仮説が検証されるわけです」
そして「ビール酵母に特有の亜硫酸の生成に関係する遺伝子を解き明かしたことは、非常に興味深かった」と藤村は語る。亜硫酸とは、抗酸化作用をもつ成分で、市場に出回る多くのワインに添加されている。
「しかし、多くのビール酵母は自ら亜硫酸をつくり出すことができます。言ってみれば、ビールはその美味しさを天然の抗酸化剤で守っているわけなんです。ここでも関係していそうな遺伝子をパン酵母に移植してみると、やはり亜硫酸をつくり出すことが確認できました」
醸造の現場においても、ビールづくりに独特の酵母の取り扱い方がある。
「ビールづくりにおいては、発酵工程を終えた酵母を回収し、また次のビールづくりに使用することができます。でも、これはビールづくりに特徴的なことで、ワインやウイスキー、焼酎などでは酵母を捨ててしまうことが少なくありません。サントリーも、ワイン、ウイスキーをつくっているので、入社間もない頃、現場でそれを目の当たりにして酵母がかわいそうだと思ったのを覚えています(笑)。もっとも酵母が捨てられるのは、ビールと比べてアルコール度数が高いお酒。なので、発酵の過程で酵母も〝疲れて〟しまうという側面があって、仕方のないことなんですけどね」
この「酵母の再利用」こそ、ビール醸造家の仕事の面白みといえるかもしれない。ビールそのものをつくるのと同時に、次もまた最高のビールづくりができるよう、酵母を生み、育てることを考えながら手を動かしているのだ。
「お酒だけ高品質のものがつくれればいい、というわけではないんです。ビールをつくりながら、酵母も最高の状態に育てないと。そうでなければ、安定的に美味しいビールを提供することができなくなってしまいます」
入社後4年間、基盤研究を行った藤村はその後、技術開発、商品開発の現場を歩んだ。ただ、どこにいても酵母への愛情はまったく変わらなかったのは、ここまでの彼女の話からもうかがえる。
「麦芽、ホップ、水ももちろんビールになくてはなりませんが、私の場合はやっぱり酵母が気になりますね。酵母の入ったタンクに抱きついて声をかけることもありますし(笑)。なぜここまで思いが募るかといえば......より手がかかるからでしょうか」
素材である麦芽やホップは、品質を見極め、厳選したものが納入され、それらを受け入れた工場では仕込工程以降、その魅力を余すところなく美味しいビールへと仕上げていく作業が続く。
「ザ・プレミアム・モルツはピルスナービールの最高峰を謳う以上、とにかく頂上へ挑み続けるんだ、という醸造家の姿勢を示したもの。マスターズドリームも挑戦の姿勢は同じですが、あらゆるタイプの醸造家の夢を形にしたイメージです。実際に、開発に携わった醸造家の数は多いんですよ」(藤村)
「麦芽やホップも農産物ですし、決して簡単なものではないのですが、酵母ほどの気まぐれはないというか......発酵中は思ったようにふるまってもらいたくて、褒めたり、叱ったり、機嫌をとったり......そんな感覚で温度や酸素の量などを調整します。まるで子育てと同じように、手がかかるんです。
でも、最高の素材でつくった最高の麦汁を、美味しいビールに仕上げるにはこの酵母が欠かせない。それでいて、通常は麦芽やホップのように表舞台に立つことはほとんどありません。ビールづくりにおける『縁の下の力持ち』のような立場、それが酵母です」
ビールを手にとる人々のことをイメージし、そして自分たちはどこへ向かうべきかを考えるのが醸造家。最後に、そうした開発の流れの中での醸造家たちの動きを、藤村は自身の立場を交えながら教えてくれた。
「それぞれの醸造家に、それぞれの強みがあります。現場でのものづくりに長けた人、麦芽やホップなど素材の知識や取り扱いに長けた人、......そんな中で、私自身は酵母とその活かし方を提供する人、といえるでしょうか。こうした場でもない限り表に出ることはないので(笑)、私もまた『縁の下の力持ち』だと思っています。そういう意味で全ての製品に関わることができる立場として、素材の魅力を余すことなく美味しいビールに仕立げ、狙いの香味を実現し、最終的にお客様に喜んでいただく。それが私の使命だと考えています。」
肉眼で目にすることは難しいものの、ビールづくりで大きな役割を担う酵母。それと同様に、私たちの目にする機会のない工場や研究室で、多くの醸造家たちも互いに手を取り合いながら、最高の一杯をつくるための試行錯誤を続けている。
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