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ビールの肴になるカルチャー

邪悪と親密さが共存する村上春樹の世界において ビールは祝福の光として主人公を照らす――速水健朗

2017年5月 9日

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村上春樹の小説には、登場人物たちがビールを飲む場面が頻繁に出てくる。それは久方ぶりに再会した友人、恋人、一人で物思いに耽る時など様々だ。彼の物語においてビールとは、どのような存在なのだろうか。そして、登場人物たちはなぜビールを飲むのだろうか。映画や小説を例に挙げながら東京の都市機能と景色の変遷を論じた『東京β』を昨年上梓した速水健朗が、村上春樹が描く"ビールがある景色"を読み解く。

■世界が終わってしまう前に主人公が選んだ飲み物

仮に自分の人生が残り1日で終わると知らされた時、人はそれ以後の時間で何をしてすごそうと考えるのか。

全財産を使って考え得る限り楽しいことをする? 日常の中の1日をまっとうしようとする? 誰と過ごすか? 1人? 好きな異性と? 友人たちと大勢で? さて次の事例は、35歳男性、小説の主人公のケースである。

残された時間は24時間。主人公は昼に銀座に出かけ、ポール・スチュアートでシャツとネクタイとブレザー・コートをクレジットカードで買う。なぜなら夜には、図書館で働く女の子と食事に行く約束をしたからだ。

次に買うのは、音楽のカセットテープ数本。それは、レンタカーのカーステレオで聴く用のものである。何が聴きたくなるかわからないので、クラシックからロックまで取りそろえる。そしてレンタカー屋に出かけ、従業員で古い音楽に興味がある若い女性とボブ・ディランについて議論を交わすのだ。

待ち合わせまでにはまだ時間がある。時間を潰すのは、ゲームセンター。次には、その隣の金物屋で外国製の爪切りの買い物をする。これは彼女へのプレゼントだ。そして、やっと待ち合わせの時間が来る。仕事終わりの彼女と図書館の玄関で待ち合わせをすると、近くのイタリア料理屋に入り、たくさんの料理を食べる。そのまま彼女の家に泊り、一夜を過ごす。

これは、村上春樹の小説『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』における主人公の最後の1日だ。彼の脳内には意識の壁が築かれ、24時間で彼はその中の世界に取り込まれてしまう。それは、現実世界での人生の終了を意味していた。

残された24時間で、お金はそれなりに使った。最後の1日にわざわざ洋服を買うというのは、悠長だ。だが、レストランに行くには、それなりのシックな装いが必要であるという主人公の哲学から出てきた行動。その意味では主人公は、日常の中の1日として人生の最後の1日を過ごしたのだ。

さて、彼女の家で朝を迎えた時点で彼には、まだ数時間の人生の時間が残されてる。

「今日はこれからどうするつもりなの?」と彼女が尋ねる。この彼女には、別の場所に行くことは伝えているが、自分の死のことは知らせていない。言ったところで信じないだろう。

「どこかの公園に行って二人でひなたぼっこをしてビールを飲もう」

主人公が選んだ選択肢はビール。よく晴れた10月の朝、彼は図書館の彼女とともに、公園の芝生でビールを飲むことに決めたのだ。

公園に向かう途中に酒屋で缶ビールを半ダース買う。ビール選びには哲学もある。「飲み物なんて泡がたってビールの味がすればそれでいいのだ」。

日比谷公園の芝生に寝転がりビールを飲む。昼頃に彼女を帰らせ、途中からは1人でビールを飲み続ける。必要なくなったクレジットカード数枚をライターで焼き、鳩たちには、ポップコーンを投げてやる。その後、主人公は、カラマーゾフの兄弟の名前を思い出しながら時間を過ごし、最後の缶ビールを空けた。空き缶を抱えてゴミ箱まで運ぶ。「残された時間はあと一時間と少し」である。

村上春樹の小説には、たくさんのビールが登場する。スーパーでの買い物のついでに買う缶ビール、家で料理をしながら飲むビール。バーで頼むビール。のべつまくなしに主人公はビールを飲む。ただし、少しだけ注意深くビールが登場する場面を眺めていくと、重要な場面にビールが登場していることに気がつく。

■祝福のイニシエーションとしてのビール

先ほど取り上げた『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の最後の場面との関連で思い出す小説の場面がある。デビュー作『風の歌を聴け』の序盤である。

主人公と「鼠」は、2人で無謀なドライブをして、公園の生け垣を突き抜け石柱に激突する。「鼠」のフィアット600は大破するが、2人は奇跡的に怪我ひとつしなかった。それを祝うため2人は「近くの自動販売機で缶ビールを半ダースばかり買って海まで歩」いていく。そして、「砂浜に寝ころんでそれを全部飲んでしまうと海を眺め」るのだ。

2人で飲み尽くす缶ビールは、やはり半ダースなのだ。半ダースの缶ビールは、春樹小説における儀式のようなものなのだろう。

当時はまだ街中に缶ビールの自動販売機があったのだろう。小説の舞台は1970年だが、作中で3年前のエピソードとして語られるから、これは1967年頃の出来事だ。缶ビールの自動販売機の登場は、その5年前の1962年だが、普及するのはもっと先のことなので、主人公たちは、自動販売機探しに少し苦労した可能性がある。そしてプルトップ式の缶ビールが発売されたのは、1965年。それ以前は、缶切りで空ける缶ビールが売られていた。そう考えると、小説の主人公たちが自動販売機でビールを買い、手軽に砂浜で海を眺めながらビールを飲んだ時期は、それが可能になって間もない頃ということになる。半ダースの缶ビールの儀式には、こうした背景も見出すことができる。そして、現代では、酒類の自動販売機の設置は未成年の飲酒防止という観点から、ほぼ見かけることがなくなった。

■不吉を乗り越える親密さのシンボル

もうひとつの春樹小説のビールが儀式的に登場する場面を取り上げてみる。『ダンス・ダンス・ダンス』の終盤である。

前作『羊をめぐる冒険』に登場した「いるかホテル」を主人公が再び訪れる本作は、『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』のシリーズの続編。主人公には、中学の同級生だった五反田君という友人がいる。彼は、2枚目俳優として成功を収めている。

たまたま入った映画館で、五反田君が出演している映画を観た主人公は、スクリーンの中に姿を消したガールフレンド・キキの姿を見つける。キキの行方を探りたい主人公は、五反田君に連絡をとる。これを機に2人はたびたび会って一緒にスコッチウィスキーやカクテルやウォッカ・トニックを飲むようになる。2人はキキの話もするが、キキの行方はわからないままだ。

ある日、主人公は五反田君がキキを殺したという結論にたどり着く。なぜ殺したのか。五反田君を問い詰めなくてはならない。雨の夜、五反田君の方が突然、主人公のアパートにマセラティに乗って尋ねてくる。

2人は「落ち着いて話ができる」場所を探した。結局、「徹底的にうるさい」シェーキーズに出向くことになった。彼らはピッツァを注文する。飲む酒はスコッチでもカクテルでもなく生ビール。彼らは「何も考えずに黙々とビールを飲み、ピッツァを食べ」続ける。大事な話に行き着いたのは、さらに多くの生ビールを空にしたしたあとだ。

「ねえ、君がキキを殺したのか?」

五反田君は、キキを絞め殺したかもしれない「確証」のない殺人の記憶を打ち明ける。「錯綜」した記憶。観念的な殺人。キキの「死体」は存在しない。

五反田君は、主人公に最後の台詞をはく。

「もう一杯ビールが飲みたい。でも今は立ってあそこまで行く元気がない」。

主人公がカウンターにビールを買いに行き、戻った頃には五反田君はいなくなっていた。乗ってきたマセラティも姿がなくなっている。「やれやれ」。例の有名な感情を吐露する。そして、翌日五反田君の死体が発見される。芝浦の海からマセラティとともに引き上げられたのだ。

村上春樹の小説には、ある種の不吉さ、邪悪なものが登場する。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』に登場する「やみくろ」はさらに明確な「邪悪」な存在だ。

「やみくろ」は、東京の地下に巣を作り、地下鉄網を使って勢力範囲を広げている。彼らは無数の羽虫のうなりのような声を発する。「まるで体じゅうの神経という神経に憎悪のやすりをかけられているような気がした」とやみくろの巣に近づいた主人公は感じる。「やみくろ」は、大都市の地下に住む憎悪の集合体であり、「記号士」と呼ばれる人間社会のとある勢力と手を組んでいる。地上に住む我々は、その存在すら知らずにいる。

こうした不吉さ、邪悪なものは、春樹小説における定番の構図である。五反田君が抱く「自己破壊」の願望が『ダンス・ダンス・ダンス』における不吉さ、邪悪なものの本体だ。それを嗅ぎ付けるのは、主人公とよくドライブに出かける13歳の少女・ユキだ。彼女は、五反田君のマセラティに「不吉」さを感じ、最後には彼がキキを殺していることを察知する。ユキは、邪悪さを感じとる能力に長けている。

一方では、不吉や邪悪なものたちとは対となる勢力も、村上春樹の小説には登場する。それは「親密な感じ」であったり「感じのいい」と表現されるものだ。例えば「親密でスイート」なビーチボーイズ。「不吉なマセラティ」とは逆に「親密な感じがする」中古のスバル。こうした「不吉」なものたちと「親密」なものたち。そのせめぎ合いが常に小説の中で綱引きを行っている。

「鼠」や「五反田君」といった主人公の友人たちは、不吉さに取り込まれたり、巻き込まれたりするのだ。そして、彼らはそれを封じ込めるかのように死を選びとって主人公の前から姿を消していく。その戦いは常に主人公の周囲で繰り広げられ、主に彼はそれを「やれやれ」と見守る。

「邪悪さ」と「親密さ」が綱を引きあう世界において、常にビールは「親密」なものの側に置かれている。何が起こるかわからない、漠然と邪悪が渦巻く中でも、一筋の光として差し込む存在とも言えるかもしれない。

何とも高尚な話にも思えるが、我々が生きる現実の世界でもそうだろう。拭えない不安があっても、誰かと、または一人で、安堵のひと時を噛み締めたくなってしまう。刹那の祝福のためにビールを選ぶという人は、春樹の作中人物だけではないはずだ。

速水健朗(はやみず・けんろう)

1973年生まれ。ライター・編集者。著書に『都市と消費とディズニーの夢 ショッピングモーライゼーションの時代』、『1995年』、『東京どこに住む? 住所格差と人生格差』など多数。ほか、ラジオ「速水健朗のクロノス・フライデー」でMCを務める

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