あの酒場に訊け!
2018年5月31日
人間の欠点といえば、成長していく過程でつい大切なことを忘れてしまうことが挙げられるだろう。忘れものに気づいたとき、私たちはどこへ立ち返ればいいのだろうか? 「あの酒場に訊け!」第5回の主人公は、TOTI ni BAR(トチバー)のオーナー・田村整嗣。彼は常に「伝統」と「本物」を尊び、ときに師の教えを思い返す。それは、カウンターの〝こちら側〟に座る私たちの心にも染みるはずだ。
贅沢----大きな緑の葉を持ち、春から初夏にかけて白く美しい花を咲かせる、栃の花言葉である。田村整嗣がオーナーを務める「TOTI ni BAR」は、この栃の木の一枚板がカウンターに使われている。
「栃の木の一枚板を入れてくださったのは、この店をオープンするときに内装を担当してくれた会社の社長さんです。実はそのとき、店の名前をどうするか悩んでいたんですね。『BAR田村』などといった自分の名前をつけるには時期尚早だと思っていましたし、かといって、ほかに気の利いた名前も浮かばない。そこで社長さんが、『あなたがこれからこの店の顔となる人間になるように、お客さまもこの栃の木の一枚板にこれから会いにくることになる。だから、トチバーという名前はどうだろう?』といってくれたんです」
もし、酒場の神様がいるのなら、田村への啓示を店のデザインをしてくれた社長に代弁させたのかもしれない。
栃の花言葉のように、客には贅沢な時間を過ごしてもらうべきだ。そして、自身と店が大木のように育つのを願うならば、深い根を張るがごとく、店のシンボルをきちんと位置づけ、そこに思いを馳せなさい----とでもいうように。
店名の読み方は「トチバー」だが表記は「TOTI ni BAR」。niの意味について聞くと「アイヌ語で『〜の木』をニというんです。単にトチで終わらせるのではなく、栃の木を表記で意味づけました」と田村。
カウンターとテーブル席1つから始まったTOTI ni BARは、オープンから15年を経た今、銀座エリアに5店舗(離れを含めると計7カ所)の飲食店を展開する「栃グループ」になった。そこに至るまでの経緯を振り返ると田村は、「ちょっと神がかっているので、あまり信じてもらえないかもしれませんよ」と笑う。進むべき方向を見出したことで、酒場の神様はTOTI ni BARに大きな幹と豊かに覆い茂る葉を与えたのだろう。
その末に今年、彼は〝花〟を咲かせた。
「4月10日に『栃咲き』という名の日本料理店をオープンしました。皆さんのおかげで大樹になった栃の木が花を咲かせた、というコンセプトの店です。15年の集大成ですね」
もっとも、木が大きく育つためには情熱や信念だけでは足らず、栄養となる土、空気、陽の光が不可欠だ。田村にとってそれは、なんだったのか。彼がまだ〝苗木〟だったころの話を聞いた。
田村は鉛色の船がいくつも浮かぶ、神奈川県横須賀の出身。学生時代、大手企業が運営するレストランバーでアルバイトをしたことがきっかけになり、本格的にバーテンダーとして生きることを決心した。
「このコーナーの1回目に三石さん(三石剛志。『あの酒場に訊け!』第1回Bar三石)が出ているでしょう? 実は、僕がバーテンダーとしてやっていくにはどうすればいいかと最初に相談したのが、三石さんの師匠である佐藤謙一さん。私の姉の知人に帝国ホテルに勤めていた方がいまして、そこでご紹介いただいたのが当時、同ホテルのバーテンダーだった佐藤さんなんです。佐藤さんからは『君の家は横須賀だから、東京のバーまで通うのは大変だろう?』といっていただきまして、そこからさらに紹介されたのが横浜・大倉山『グローリー』のオーナーである宮内誠さん。その宮内さんの孫弟子に当たるのが、本間さん(本間勲。『あの酒場に訊け!』第3回JBA BAR SUZUKI)です(笑)。みんな、こうやってつながってるんですよね」
姉の知人の伝手から、キャリアの入り口の時点で2人のベテランバーテンダーと出会った田村。宮内のいる新横浜「ラ・メール」に入店した後も、人脈の尊さを学ぶことになる。
師の宮内はバーテンダーに限らず、居酒屋やスナックなど、さまざまなタイプの飲食店を経営する人と親しくする。そのため、「少しの間、お弟子さんをお借りできないか」と相談を受けることが多い。当時、ラ・メールやオープンしたばかりのグローリーで働いていたのは10名ほど。皆、所属する店のカウンターに立つだけでなく、折に触れて宮内から「来週はあのバーを手伝ってこい」「君はここの居酒屋のホールに何日か入ってほしい」と指示が飛び、田村もそれを受けた1人だった。
「独立するまで僕が正式に所属したオーセンティックバーって、ラ・メールを含めて2店舗しかないんですよ。もしかしたら、ほかのバーテンダーより少ないかもしれません。その代わり、宮内さんがいろいろなところへ出してくれたので、実質的には20店舗ほどの場所で学ばせてもらえました。おかげで、多くの先輩、後輩、同志といった人間関係を築けましたね。また、後になって気づいたことですが、宮内さんは『郷に入れば郷に従え』ということを教えたかったんじゃないかと思うんです----ラ・メールにいれば俺のやり方しか知ることができない。だけど、それぞれの店のやり方、しきたりがある。それらをきちんと見て学んでこい、というのが宮内さんの真意だったと思います」
そしてもう1つ、〝苗木〟のころの田村にとって大きな養分となったのが、何事も本気でやれ、という宮内の教えだ。
「仕事を本気でやるのは当然のこと。その上で宮内さんは、今申し上げたような人付き合いもそうですし、遊びもいつも本気なんです。私たちスタッフにもそれを求めます。たとえば、こんなことがありましてね......」
あるとき、田村は宮内から声をかけられる。
「田村。来月、メーカーズマークの見学会があるから、お前、1人でアメリカに行くか?」
承諾した田村が、なんとかアメリカ行きの旅費を工面し、準備し終えたころ、さらに宮内からこのように誘われた。
「再来月にスペインへ行ってシェリーを飲みに行く。田村もついてくるか?」
アメリカだけでなく、スペインも自費で行かなければならない。このことを、田村は次のように振り返る。
「当時、僕はまだアルバイトのスタッフで、時給は800円だったんですよ(苦笑)。それでも、宮内さんのお誘いを断ることはありませんでしたね。私も本気であることを忘れないようにしていましたから」
言葉を止めないまま、田村はバックバーからメーカーズマークを取り出した。
「本や映像で勉強したって、その場に行ってみなければわからないことはたくさんある。おそらく宮内さんがいう『本気』とは、無理があってもやれることをやらなければ何事も知ることができない、成長できない、という意味だったと思いますし、実際に今の自分の人格を形づくってくれています。メーカーズマークを手に取ると、初めて海外の酒づくりをこの目で見たあの頃を思い出すんです」
田村がつくった「オールドファッションド」。ミントジュレップとともにケンタッキーダービーの観客に愛飲されるもので、田村も渡米時にはこの2種類をよく飲んだと語る。
続けて田村の手は、カクテル「オールドファッションド」をつくり始める。シュガーとビターズを入れたグラスに、バーボンウイスキー(メーカーズマーク)を注ぎ、レモン、ライム、オレンジ、チェリーで彩りを添えたカクテルだ。
「おつくりしたオールドファッションドは、スタンダードなレシピに則ったもの。カクテルをつくるとき、お客さまから『こうしてほしい』という注文があればもちろんそれに合わせますが、基本的には伝統的なレシピでつくるのが一番良いと思っています。やはり、昔からの伝統が紡がれているというのは、相応の理由がありますから。それも、いろいろな経験をさせてもらって気づいたことの1つですね」
栃咲きで提供している玉川堂のビールカップに注がれたマスターズドリーム。今回のインタビューでは、特別にTOTI ni BARで提供してくれた。
伝統とともに田村が大切にしているのが、「本物」へのこだわりだ。
「初めて飲んだときの印象で、ウイスキーが嫌いになる人、日本酒が嫌いになってしまう人っていますよね? 人それぞれの体質もありますから決めつけはしませんが、最初は安いものから、と選んでいって失敗してしまうケースも考えられます。そこで僕は、お酒の初心者の方にもあえて熟成年数が高いものなどをおすすめすることもありますね」
数多の酒があるからこそ、本物に触れるためにはどうすれば良いか、自分たちバーテンダーに相談してほしいと話す田村。そして、彼の本物へのこだわりは酒そのものにとどまらない。
TOTI ni BARで出されるビールはマスターズドリームだが、これはオープンしたばかりの日本料理店・栃咲きでも同じ。栃咲きでは、「玉川堂」がつくる銅製のビールカップにマスターズドリームを入れ、提供する。
「お酒は提供する器1つで、五感それぞれの感じ方がまったく異なります。本物のビールに決して見劣りしない、本物の器を選びたかったんです」
玉川堂は、200年の歴史を有する鎚起銅器(銅を鎚で叩くのみの技法で器をつくる)の老舗。ビールカップは1客=1万8,360円で、新潟・燕市の本店や都内の販売店などで取り扱われている。
「それを栃咲きでは1杯=600円で提供していますから、お客さまにとっては費用対効果が高いはず(笑)。いうまでもなく、味も保証します。麦芽由来の風味をより感じられ、銅の感触がよりマスターズドリームのうまさを引き立てていますよ。店ではサーバーから注いでいますが、瓶のマスターズドリームから注いでも、冷たい感触から『よく冷えた美味しいビール』だと感じられるでしょう」
4月10日にオープンした「栃咲き」のエントランス。写真にある銘板のほか、カウンター、内装のいたるところに、栃の木が使われている。
咲きを開いた現在の田村の下には、50名を超えるスタッフが集っている。今後、もっと新たな展開をしたいのでは? と聞くと、首を横に振りながら次のように答えた。
「年を取ったら、自分1人でやりたいことができる店を持ちたいとは思いますが、それは今じゃない。次はどうしたいか、と思うのではなく、お客さまや時代に併せて変化していくことをまず考えています。いらっしゃったときは暗い顔のお客さまが、帰られるときには明るい顔に変わっていただくのが僕らの仕事。お客さまの気持ちが良い方向に変わっていただけるためには、まず自分自身が変化できる人間でなければいけませんよね」
樹木は季節によって葉を生やし、落とすといった変化をすることで、自らの生命力をより強くする。銀座に根を張り、花を咲かせた「TOTI」の木もまた変化を止めないことで、客が身を寄せる止まり木であり続ける。
(文中敬称略)
〈店舗情報〉
TOTI ni BAR
東京都中央区銀座8-5-19 園枝ビル B2
TEL 03-6215-8820
営業時間 月〜土 18:00~翌4:30
定休日 日曜・祝日